11 STORIES伊勢崎銘仙にまつわる11のはなし

日本絹の里 第5回企画展「伊勢崎の織物展 −太織・銘仙・絣−」の冊子から転用したものです。群馬県立日本絹の里の許可を得てHPに掲載しております。

STORY 1伊勢崎織物の起源

伊勢崎地方の最古の織物は、淵名の6世紀の古墳から出土した楮(麻)を紡いで織った布です【写真1】。日本書紀(720年)には朝廷にあしぎぬ(粗雑な絹織物)を献上したり、延喜式(927年)の調として帛(うすぎぬ)が納められた記述があり、この頃すでに伊勢崎で織物が作られていたと推察できます。

また、伊勢崎市には、古くから機織りが行われていたことが伺える名跡があります。

上之宮町には、倭文神社(しどりじんじゃ)という延喜式神明帳(延長5年/927年)にも載っている古いお社があります【写真2】。倭文とは、楮や麻などの繊維で織り、その布を赤や青の縞目をつけた布です。古くから織物の神としてまつられたことが伺えます。

宮前町の赤城神社には、貞治5年(1366年)銘の多宝塔があります【写真3】。これには秦(はた)の名があり、秦氏は養蚕・機織りの技術者の祖先で古くから伊勢崎の地で織物がつくられていたと想像されます。

元弘3年(1333年)、新田義貞の旗揚げの際に地元の農民たちが喜んで旗地用の絹を献上したという伝えも残っております。

1.淵名古墳から出土した織物片
(相川考古館蔵)

2.倭文神社(しどりじんじゃ)

3.赤城神社の多宝塔

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STORY 2絹市と織物業

18世紀初頭(江戸時代)には、市がたち【写真4】、伊勢崎の絹織物は伊勢崎縞(しま)や伊勢崎太織(ふとり・ふとおり)として商品化されて行きました。この時代の太織の原料は、手製の玉糸や熨斗糸などで、これをいざり機(地機)にかけ、縞物・格子柄・無地物が織りだされました。地質が丈夫で渋みがあるところから、庶民性が高く、特産品として全国に広まりました。【写真5】

4.境街糸市繁盛の図

5.永代冥加金上納人
名前帳

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STORY 3元機屋の出現

絹の需要増大に伴い、この頃から、養蚕が盛んになりました。市には絹商人が集まり、売買を世話する絹宿や織物を製造する元機屋(もとはたや)が現われました。元機屋は、自己資金で糸を買い付け、それを自ら染色するか紺屋に糸染めを依頼し、指定の縞柄をつけ、農家に機織りを依頼しました。織り上がった製品は、元機屋で仕上げられ、市の絹宿を経て江戸や京都の呉服問屋に送られました.初期の太織は、縞柄がほとんどでしたが、弘化4年(1847)には、馬見塚村の鈴木マチ女により初めて十文字や井の字の図案を織り込む技術が確立され、これが伊勢崎大絣のはじめであるといわれます。この技法は改良されながら受け継がれ、明治2年(1869)頃から・経糸に絹の撚糸が取り入れられ、本格的に絣が商品化されました。こうして元機屋の出現により絣は、作業工程が分業化され、量産化が可能になりました。元機屋の仲間は、領主に冥加金を納め、太織業者の育成・保護を願い出ており、この時(弘化4年)に加入している元機屋は67名で、後には102名(嘉永元年:1848)に発展しています。

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STORY 4明治維新と伊勢崎太織会社

明治に入り、絹の撚糸が経糸に取り入れられたことにより、密度も増し、布の表面も滑らかさを増して外見はひときわ美しくなり、伊勢崎絣は珍重されるようになる一方、明治維新の世相を反映してか仲間の協同体意識も薄れだし、人造染料導入による色あせや粗悪品の流通が問題になり、明治13年(1880)、下城弥一郎【写真6】らによって伊勢崎太織会社が設立され、品質保持による伊勢崎太織縞の信用の回復を図りました。【写真7】

6.下城弥一郎

7.伊勢崎織物功績者の碑
(下城弥一郎・森村熊蔵)

明治18年(1885)、伊勢崎太織会社は伊勢崎織物業組合に改組されましたが、織物講習所を開設しています。織物講習所は明治29年(1896)に森村熊蔵の尽力によって伊勢崎染織学校(伊勢崎工業高校の前身)【写真8】になりました。そして、明治31年(1898)に伊勢崎織物同業組合【写真9】として改組しています。
また、この頃から織物の生産者と販売業者、大口購入者(呉服店・デパート)との間を仲介する仲買商(買継商)が現れました。買継商は、江戸中期に伊勢崎の地で仲買人的な役割を果たした絹宿が前身であり、明治後期以降の伊勢崎銘仙の発展におおいに寄与しました。

8.伊勢崎工業学校の実習風景(明治43年)

9.伊勢崎織物同業組合(明治43年)

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STORY 5伊勢崎銘仙の由来

伊勢崎太織が、「銘仙」の名で呼ばれるようになったのは定かではありませんが、明治20年頃であるといわれます。銘仙とは、絹を素材にして造られた平織物の総称として用いられ、特に伊勢崎はもとより足利、秩父、八王子など関東地方の製品に対して使用されていました。 銘仙の起源は、天明年間(1781~1788)に、経糸の数が多い、筬目(おさめ)が千もありそうな緻密な織物を「目専」、「目千」と呼び、これが転訛されて「めいせん」となった説があります。
また、明治20年(1887)頃、伊勢崎太織の販売店が、東京日本橋南伝馬町に開かれたときに、赤地に白抜きで「めいせんや」の文字を染め抜いた旗をたてて販売したのが、後に「銘仙」の文字を使用するもとになったという説もあります。

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STORY 6技術革新と工程の分業化

江戸末期に染色を専門にする紺屋、糸屋が現れ、機業工程から分離しましたが、明治中期には、機巻き・糊付け・撚糸などの工程が分業になりました。織機も明治20年以後は、いざり機【写真10】から高機【写真11】に移行されました。

10.いざり機

11.高機

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STORY 7第1次黄金時代

明治末期には、力織機も導入され、一部は工場化【写真12】されましたが、生産の大半は農家の賃機によるものでした。伊勢崎銘仙の種類も、括り絣、板締絣による珍絣銘仙をはじめ、併用絣・緯総絣銘仙などの工芸織物が加わり、伊勢崎銘仙の名は全国に広まり、大正初期まで第1次黄金時代を迎えました。【写真13】

12.織物工場の一部(明治43年)

13.求評会風景(大正初期)

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STORY 8第2次黄金時代

昭和の初期になると平織銘仙万能から立体感のある新規織物の需要が高まり、加工方法を工夫したり人絹糸を導入したりして千代田お召が開発され、第2次黄金時代を迎えました。【写真14・15】

14.ポスターのモデルをした
水谷八重子さんを囲んで(昭和初期)

15.昭和10年織物展示会風景

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STORY 9統制時代

昭和12年(1937)に日華事変が起き、第2次世界大戦に突入する中で伊勢崎織物は不振に陥り、昭和18年(1943)に入ると伊勢崎銘仙は統制品となり、経緯に金糸を入れて織った高級品は贅沢品であるとして販売禁止になってしまいました。【写真16・17】

16.統制時代前の織物

17.統制時代後の織物(昭和15年以後)

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STORY 10戦後の復興と高度成長期

終戦前夜の昭和20年(1945)8月14日、伊勢崎市街地が空襲で壊滅状態になりましたが、郊外に点在する手織業は、いち早く復興しました【写真18】。そして、年を追うごとに生産量は上昇し、昭和31年(1956)には292万反・50億円に達し、第3次黄金期を迎えました。しかし、戦後の急激な流行の変化と生活様式の変遷によって、この年を境に下降線をたどりました。この打開策としてウール絣やアンサンブルを開発し【写真19】、昭和40年には190万点64億円の生産額をあげ、総合織物産地としての底力をみせましたが、買い替え需要がなく、衰退して行きました。

18.作品展示会風景(昭和30年)

19.ウール製品秋冬物最盛期風景
(昭和37年)

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STORY 11伝統工芸品「伊勢崎絣」

昭和50年(1975)5月、伊勢崎絣が「伝統的工芸品」【写真20・21】として国の指定を受け、新しい一歩を踏み出しました。同時に、「伝統工芸士」12人が、国から認定されました。この制度は、伝統的工芸品を製造する産地で、優秀な伝統的技法を保持する人に、技術の維持向上を図り後継者の確保を目的としたもので、先人から受け継いだ伝統的技法を次代に伝承し、後継者を育成することが課題となっております。【写真22】
現在、伝統的工芸品に指定されている伊勢崎絣は、括り絣、板締絣、併用絣、緯総絣です。

20.伝統工芸品「伊勢崎絣」

21.伝統工芸品マーク

22.伝統工芸士作業風景(摺込み捺染)

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